新羅の都祈野から大阪に渡った天神さんはどこか?
先ずは上の画像は約920年前の「河堀帝御代古地図」で中央の少し上に一つだけ橋が見える。これが渡辺橋(現在、天満橋)があり、橋の上が北渡辺村(兎我野神社が見える)で下が南渡辺村(坐摩神社見える)がある。
地図の中央左手に州二つの内、上が百済州(現在本町辺り、百済町→久太郎町)で下が新羅州(現在難波辺り、新羅橋→心斎橋)の州(島が)見える。
北渡辺村側の橋上に「兎鹿野(トガノ)神社」(都祈野のトキ→トガ)があり、おそらく、この辺一帯が都祈野であると想像できる。その上を行くと「妻社」(細鳥女の事か?)その横が「天満宮」でその上に「天満寺」がある。またその左の海岸沿いに「天神社」(今のお初天神?)が見える。当時は西生(ニシナリ)郡と言っていた)
南渡辺村側の橋下に「坐摩大社」(現在、谷町筋沿いか)が見えてて、ここは宮中に祭っている坐摩の五神(生井,福井,綱長井,波比歧,阿須波)を祭っている。その右横に石山(後の大阪城で、築城当時は石山城とも言ってらしい)が見える。当時は東生(ヒムカシナリ)郡と言っていた。※宮中には36の神坐を祭っている。
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「両渡辺村」の人たちが、何らかで天神の祭り事に係わったとみられのは明らかで、後の大阪城築城時に「南渡辺村」は今の「座摩神社」辺りに移る。
「北渡辺村」は元禄に入って今の浪速区西浜町に移り、明治の頃まで渡辺町と名乗っていた。「白木(新羅)神社」があり、「座摩神社」の祭り事の翌日にはここでも祭り事を行っている。
この地図を見てまだまだ陸地少なく、橋なんか1本しか見当たらないまさに、「水の都」そのもの。
あと、当時に今里や片江の地名があってほっとしますな。